実家近くの公民館に置いてあった機材。
幼い頃にはこれを”シーソー”か何かだと思ってたけど・・・。
実は、これは地域史の中で重要な役割を果たした、消防用の「腕用ポンプ」。
使い道を知り、かなり貴重な物だと知ったのは、震災以降ですが、
その時にはガラクタとして処分されてました・・・orz
吸引/排出ホースなども残っており、きちんと整備したら、こんな雄姿が見られたんでしょうね。
http://www.city.hanamaki.iwate.jp/shimin/190/196/p000264.htmlhttp://www5.airnet.ne.jp/hukuta/wanyou/wanyou.html完全な稼働は無理としても、市立博物館の展示品として、きっと人気が出たんだろうな、と
「陸前高田市史 第8巻 第二章・消防」によれば、市域内に初めて腕用ポンプが導入されたのは、
明治十九年の高田消防組。
その後、気仙、米崎、横田、小友・竹駒、矢作の各地域に導入されてゆき、
大正十五年広田消防組への配備で、すべての消防組に普及していったとのこと。高田の街はもとより、寺院などの建造物も火災で損失した場所が多く、
こういった効率の良い消防器具の導入が早期から検討されていたのでしょう。
(ちなみに、腕用ポンプの有用性が評価され、国産化の方向になったのが明治十六年ごろ)
腕用ポンプの性能は、二十人の組員が交代で操作して、
一分間に一馬力に相当する水量しか放水できないと言われているので、
長時間の連続放水にはかなりの人数を要し重労働であったものと思われるが、
それまでの破壊消防(火の手が広がらないように、あらかじめ周囲の建造物を破壊/除去する)
と比較すれば、延焼していない建物を傷つける必要性が回避されるので、街の人も歓迎したのでしょうね。
ときに、冬などに若い人が出稼ぎに出てた時期に、人手をどうやって確保したのか
気になるところですが、その当時はそれを補うに足りるほどに家内産業(織機・養蚕など)で
街に残る人員もあったのでしょうか。
明治39年には「高田町大火(278戸焼失。当時の市街地の大半)」、
大正3年には横田村のほとんどを焼き尽くした「横田村大火」があり、
いずれの地区においても消防の近代化とともに、復興/街作りが成されていきました。
(ただ、消防の器具の進歩だけでは火災の対応が出来ないため、
道路の拡張などの整備などのインフラ面でも改善がなされました。
こうやって、後の高田の街が形作られていきました)